梅津政景
江戸初期の佐竹藩の様子が分かる史料として「梅津政景日記」というものがあります。
その日記の名前のごとく、それは梅津政景が書いたのであります。
名前は、「茂右衛門政景」で、通称は「主馬」です。
彼は、渋江内膳と兄である半右衛門と同じく、うちの殿様の近習から重臣になりました。
天正9(1581)年、宇都宮家の陪臣であった梅津道金の三男として生まれました。
梅津半右衛門憲忠は、彼の9つ上の兄です。
父・梅津金道は、(たぶん)宇都宮家改易後、半右衛門や主馬を連れて、常陸太田に移り住みました。
内膳も半右衛門も、最初は佐竹氏家臣・人見藤道に使えておりましたが、その人見の推挙により、殿様の近習となりました。
主馬も兄たちに遅れて、殿様の近習となりました。
先輩であり、近習たちのリーダー・近習出頭人であった内膳が、30歳で家老に抜擢されることになった時、川井伊勢守忠遠を初めとする佐竹家譜代家臣は、それに反発し、内膳を暗殺する計画を立てました。
それを知った殿様は、川井伊勢守を仙北での鷹狩りに誘い、横手で成敗しましたが、その時、川井を討ったのが、この主馬であります。
主馬は、その後院内銀山を管轄する「院内銀山奉行」に、そしてそのまま領内の「惣山奉行」就任し、領内で摂れた鉱山を運ぶために、駿府に赴いたことがあるそうです。
そして、佐竹軍の大坂の陣にかかる出納を管理したのをきっかけに、財政面での能力を発揮する事となり、「勘定奉行」に就任しました。
そして、勘定奉行の肩書きで、殿様のそば近くに使えていました。
元和二(1616)年に、たぬが発病した時、殿様が駿府に赴いた時にも、随行したのが主馬です。
彼がその様子を日記に記していたお陰で、その時のたぬの様子も、そして、その時の景勝君やどくがんりゅーの動きも知ることが出来ます。
元和4(1618)年に筆頭家老の向右近宣政がなくなって、兄の半右衛門が一人家老になった時、兄を助けて藩財政の責任を負うこととなりました。
寛永2(1625)年に、家老格として、藩政に関わるようになり、寛永7(1630)年に、兄・半右衛門が死去するとまもなく家老に就任したようです。
そして、寛永9(1632)年に、もう一人の家老であった小場宣忠が死去すると、一人家老として藩政を支えることとなりました。
彼は、持病持ちだったようでして、咳が止まらないだと、目が見えにくいだの・・・・後は、出張先で某なんとかを移されただの・・・・・
まあ、ともかく、仕事が激務になるにつれて、体が弱くなっているイメージが強いです。
以前、ブログで主馬から見た「本多上野介正純の失脚劇」を記事にしたことがありますが、その時、山形から久保田まで移動した様子を見ると
「普段からこんな感じで仕事をしているんだったら、体も壊すわ〜」
という感じでした・・・・
たしか、昼夜問わず2日間、馬を走りっぱなしで、山形から久保田へ向かった・・・・・と記憶しておりますが、当時は当然のことながら今のように道は整備されていなかったでしょうし、馬だし・・・・・(汗)
お勤めとはいえ、よくやるわ〜と思いました。
閑話休題
人生後半は、病を押して在国して藩政を支えていたようです。
寛永10(1633)年1月25日、参勤中だった殿様・佐竹義宣が神田の上屋敷で64歳でなくなり、その棺が冬の笹谷峠(仙台−山形間の峠道@長谷堂城の戦いの時、留守政景がもがみんの援軍で山形に進軍した時に使った峠道でもあります)を越えて2月15日に菩提寺の天徳寺に運ばれると、主馬はただ一人殿様の側で通夜をしたそうです。
殿様の葬式の取り仕切りで忙殺され、その準備が整った状態の同年3月10日、主馬は突如亡くなりました!
殿様より11歳年下でしたので、享年53歳。
なお、殿様の葬式は3月29日だったそうです。
甘利の突然の死に、殉死したのではないか?という説がありますが、その真意はともかくとして、命尽きるその直前まで殿様の為に働いた主馬でありました。

いずれにしても、彼の日記のお陰で、江戸初期のうちの藩の様子はもちろんのこと、本多正純の失脚した様子まで知ることが出来て(もちろん、それだけではありませんが)、本当にありがたいと思っております。
ありがとう!主馬!!(←めっちゃえらそうな発言・・・・@爆)
    
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