梅津憲忠
梅津半右衛門憲忠・・・・「梅津政景日記」を書いた梅津政景(そのまんまやんけ!@爆)の九歳年上のお兄さんです。
主馬(政景)の所にも書いておりますが、父が宇都宮家を出奔した時に一家揃って佐竹氏の常陸太田へ移り住みました。
その時、佐竹家北家の当主・佐竹義憲の世話になったそうです。
ですので、名前に「憲」の字がついているんだそうです
その後、茶童として殿様(義宣)に使えることとなり、それから祐筆となりました。
佐竹家が秋田に転封になった時、もちろん半右衛門さんも殿様に付き従って秋田にやってきました。
転封後、殿様の家臣の世代交代が行われた時、半右衛門は渋江内膳や向左近(宣政)と共に殿様を支え、藩政の中枢を担いました。
大坂冬の陣の時、殿様に従って従軍します。
その時佐竹軍は、今福村で後藤又兵衛&木村重成軍と激突!佐竹軍は家老の渋江内膳が討ち死にする程の激戦でしたが、半右衛門もその時深手を負いますが、それでも勇猛果敢に戦い、将軍・徳川秀忠から太刀と感状を与えられました!
この戦いで勇猛に戦った彼の姿から「佐竹の黄鬼」と呼ばれる事となりました。
「黄鬼」と言うくらいですので、黄色い陣羽織を身につけていたのでございます!(「黄唐織牡丹唐草地紋陣羽織」というのだそうです)
平成20年の秋に、秋田県公文書館で半右衛門さんが黄色い陣羽織を身につけている甲冑姿の肖像画が公開され、また同時期に佐竹資料館で、半右衛門さんの甲冑と黄色い陣羽織の実物が公開されました。
黄色い陣羽織を目の当たりにした時、「本当に黄色だ〜」と鳥肌が立ちました(をい!)
(写真はコチラをご参照ください)
ま、それはそうと・・・・
渋江内膳討ち死後、彼の後任の家老に就任したのが、この半右衛門さんでした。
半右衛門さんは、結構「暴れ者」のエピソードが残っております。
最上領に入って狩りをしていた所、それを見ていた農民に咎められたため、その農民を撃ち殺した・・・・とか
久保田城の二の丸で、殺傷事件が起こった時、御隅櫓で昼寝をしていた殿様が、その様子を聞いて、内膳の屋敷に向かって「内膳!内膳!」と叫んだ所、丁度その時内膳邸で内膳のお馬さんの手入れをしていた半右衛門が、向かいにある自分の家に戻って、長刀を取ってきて、殺傷事件を起こした者の館へ乗り込んで、そのものの首をはねて、城へ持って行った・・・・とか
あと、半右衛門本人も同僚とトラブルを起こして、その者を殴り殺した(はず?)ため、横手に一時出奔した事がある・・・・とか
しかし、それは、後世に作られたものが多いらしく、実際の半右衛門さんは、大坂で討ち死にした内膳の藩政の基礎を継承し、発展させました。
訴訟問題も、「水が流れるが如く」公平なお裁きを下すことが出来る程だったとか・・・・
教養深く、優れた政治家だったようです。

私めの半右衛門さんは、暴れ者のエピソードの影響で、完全ボケキャラとして書いてしまっていますが、実際の半右衛門さんは「全く違う」と思ってください・・・違う度合いは「180℃」です!

それから、大坂冬の陣の今福の戦いでは、上杉軍の働きが目立っておりますが、実際今福の戦いは「佐竹の方が活躍した戦い」でございます。
アピール合戦では、上杉軍に軍配があがりがちですし、しかも佐竹さんはあまりアピールをしない所がありますので、その功績は目立たないんですよね・・・・(全てが全て)

ところで、大坂の陣の後、編成された佐竹軍の家臣の中で最大の人員を要したのが半右衛門さん率いる梅津勢でした。
それほど殿様の信頼が厚かった事と思います。
そして、半右衛門さんが与えられた当高の地「角間川」に住んでいた「角間川給人(武士)」は、なんと!オノデラーズ浪人が殆どでした!
オノデラーズとも深く関わりのある半右衛門さん・・・・弟・主馬と同様、魅力たっぷりなお方でございます^^
    
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