鮭延愛綱(秀綱)
マイナー武将の一人だと思いますが、彼を知っている方は「鮭延秀綱」という名前でご存じかと思います。
私は、オノデラーズを通して、彼のことを知ったので、オノデラーズ関係では「鮭延典膳正愛綱」と言う名前で出てくるので、彼のことを「典膳(てんぜん)」と呼んでおります。
典膳は、近江の佐々木源氏の血が流れております。
彼のご先祖様の綱村という方が、15世紀末頃に近江から出羽山北へ移住してきたという事です。
出羽山北に移り住んだ佐々木綱村は、出羽国山北郡を治めていた小野寺氏の客将となり、関口城を預けられました。
オノデラーズの勢力がどんどん拡大して、今の山形県最上地方にも進出したとき、小野寺氏は真室にこの佐々木氏を配置しました。
今の山形県真室川町に鮭延城を築いた佐々木氏は、そこで「鮭延氏」と名乗るようになりました。
戦国時代の山形県最上地方は、北は小野寺氏、南は最上氏、西は大宝寺氏の勢力がひしめき合っておりました。
大宝寺氏が最上地方の制圧に乗り出したとき、典膳の父・定綱がその合戦で敗れ、幼かった典膳は人質となったという話もあるようです。
その後、大宝寺氏と和睦して真室に戻ってこれたようです。
三者の勢力で真室の庄が騒然となっていた中、典膳は16歳の若さで家督を相続しました。
ちなみに、典膳の父の姉か妹が、小野寺輝道の室に入って、小野寺義道を生んでおりました。
ですので、典膳とよっしーはいとこ同士でございます。
閑話休題!
若くして鮭延の当主となった典膳は、南から押し寄せてくるもがみんと戦っておりました。
が、もがみんの武将・氏家さん(=氏家守棟)の調略にかかり、もがみんに破れ、一時大宝寺氏の元へ落ち延びていたようですが、もがみんが庄内地方攻略に当たって、大宝寺氏にいた典膳を味方につけることに成功しました!
これにより、もがみんとオノデラーズ、しいては大宝寺氏の緩衝地帯がなくなってしまいました。
もがみんにその才能を認められた典膳は、オノデラーズのいる山北地方攻略の先鋒として、何度も何度もオノデラーズを苦しめました。
それが結局、オノデラーズ滅亡につながる一因ともなりました。
そして、関ヶ原の時、米沢から直江兼続率いる上杉勢がもがみん領へ攻めいった時、典膳は長谷堂城を守る志村さん(志村光安)の援軍に向かい、上杉勢と戦い奮戦!
その典膳の戦い振りを見て、直江君が「鮭延が武勇、信玄謙信にも覚えなし」と言ったとか・・・・・
で、典膳は戦後、その功績により鮭延1万1千5百石を領することとなりました。
その頃に越前守秀綱と名前を変えていたと思われます。
そしてその後、もがみんが死去し、最上家を継いだ家親が若くして謎の死を遂げた時・・・・
最上家では、家親の子の義俊ともがみんの四男山野辺義忠(水戸黄門のじい@笑)の間に家督争いが勃発し、家中は義俊派と山野辺派の真っ二つに割れてしまいました。
その争いに幕府が仲介に入るも、山野辺派でも強行派の一人になっていた越前は、義俊を最上家の当主として断固として認めませんでした。
手に負えなくなった幕府は、最上氏の改易を決定!
越前は、土井利勝にお預けとなりましたが、その後、許されてからは、土井家に五千石で使える事となりました。
しかし、越前はその五千石を自分の家臣に分け与え、交代で家臣に自分の面倒を見て貰っていたとのことです。
そして、越前は土井が転封になった古河の地で正保3(1646)年に亡くなりました。
改易される直前まで越前に苦しめられた山北屋形の小野寺義道が亡くなったのは、奇しくも正保2年11月22日・・・西暦に直すと1646年1月8日の事でした。

まるで彼の存在が出羽中部の情勢を握っていたといっても過言ではありません。
彼がもがみんと十分に徹底抗戦が出来ていたら、もがみんは庄内を手に入れられたかどうか分からないと思っております。
そのためにも、オノデラーズも大宝寺氏も彼を十分援護すればよかったのに・・・・と、つい詮無き事を考えてしまいます。
オノデラーズにとっては、典膳が鮭延家の家督を想像した頃、勢力が衰え始めていて、真室までとてもとても手が回らなかったのかもしれませんが・・・・・
オノデラーズ攻略に関して、典膳に旧主だから・・・・という「妥協」が感じられない感じがします。
また、最上騒動における、「義俊を絶対君主として認めない」という態度を貫いた姿を見ても、「妥協」が感じられません。
それが主家を二度滅ぼす事になったかもしれませんが、またそこが彼の潔さが伺えるような気がします。
    
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