佐竹四兄弟
平成23年7月2日掲載

被災地応援イラストの2枚目として、佐竹兄弟を描きました。

本当は、岩城貞隆だけを描こうかと思ったのですが、殿様達と一緒の方が分かりやすかろうと・・・・(能化丸君@岩城貞隆、御免!)

で、殿様の弟は全部で五人いたらしいです。

殿様のすぐ下の弟が、最終的に蘆名家に養子に入った芦名義広(最後の名乗りは、義勝)・・・・・これは、どくがんりゅーとの絡みで少しでも名が知れている方かと思います。

どくがんりゅーに会津黒川城(若松城)を取られてから、蘆名氏は滅亡!とされておりますが、彼は最後まで兄の義宣と一緒に秋田について来ております。

秋田転封前は、江戸崎の地に4万5000石の領地を与えられましたが、関ヶ原以後、佐竹家が秋田転封に併せて、江戸崎の領地を没収&改易されました。

で、兄に付き従って今の秋田県に移って来た時は、角館の所預かりとなりまするが、彼が死に、息子の盛俊が亡くなり、盛俊の嫡子・千鶴丸が慶安四年に亡くなって

蘆名家は断絶致しました。

その次の弟に、菅波義弘という人物がいたようですが、私、この方を存じません。

義弘と言うくらいだから、蘆名義広と同一人物なんだろうか?と一瞬思いましたけど・・・・・どうなんでしょうね

さて、岩城貞隆は、殿様とは13歳年の離れた弟君でございます。

磐城平に領地を持つ岩城氏の養子となり、相馬義胤の娘を正室として迎えております。

関ヶ原以後、殿様が秋田に転封される事になった時、磐城平の領地12万石が没収され、改易となりました!

彼は、兄と一緒に秋田へは行かず、岩城家の家臣と共に、江戸で牢人生活をして、岩城家再興に力を尽くしたとの事です。

それは、嫁の実家・相馬家が、一度は領地没収となったけど、改めて元の領地を与えられたのを見たからだと思います。

兄が秋田に移る時に、兄と喧嘩別れしたという説がありますが、その真偽はともかくとして、殿様は貞隆に増田の地1万石を与えたようです。

それは牢人生活を送っていた貞隆への仕送りだったのでしょうか?

彼のお家再興運動が功を奏してか?土井利勝の口利きで、本多佐渡の組下として三百人扶持を貰える身分となりました。

そして、大坂の陣の時、本多佐渡の組下として参戦!その時の功績により、川中島1万石の大名として返り咲きました。

大坂の陣が終わった5年後に彼は亡くなってしまいますが、彼の嫡男・吉隆が後を継いだ2年後、最上家と本多正純改易を経て

殿様の領地・秋田の隣の由利郡亀田(2万石)に移封されました。

↑これは、殿様の尽力によるものだという説があります。

で、吉隆はその後、殿様の跡継ぎとなり、佐竹義隆となるのですが・・・・

私が思うに、殿様が弟たちの中で、一番見込みがあると思っていたのが、岩城貞隆だったのではないか?と思っております。

そう言う事もあって、亀田藩の藩主だったのにもかかわらず、(無理矢理と言っていいほど)吉隆を自分の跡継ぎにしたのではないかな?・・・・と

次の弟は、多賀谷家に養子に行った、多賀谷宣家でございます。

彼も、関ヶ原の後、兄が秋田に転封される時、下妻の領地を没収さ&改易され、兄について秋田にやってきます。

彼の所預かりは檜山・・・・今の能代市でございます。

彼は、秋田にやってきた後も、兄のためにいろいろと働いておりますが、兄の跡を継いで佐竹家の当主にさせてもらえるほど、殿様からは信頼されていなかったらしく

岩城吉隆が殿様の跡継ぎとなった時に、彼が岩城家に入り、岩城宣隆となり、亀田藩の2代目の藩主となります。

これは、彼の嫡男・重隆(母は、真田信繁の娘)が藩主になるまでの「繋ぎ」の存在であったと言う説もあるようです。

ここには描いておりませんが、一番下の腹違いの弟に、佐竹義継(義直)がおります。

ですので、本当は四兄弟だけではないですが、震災復興応援のため、4人だけ採用致しました。


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