「孫五郎(まごごろう)」は呼びにくい?



ごろーちゃんこと小野寺孫五郎康道・・・・通称は「大森五郎」で

その「
五郎」は「孫五郎」から来ています(きっと@笑)

で、私め、
孫五郎を「まごごろう」と読むのは些か呼びにくいんではないか?と個人的に思い

勝手に己の妄想世界で、よっしーにごろーちゃんを呼ばせる時に
「孫五(まごご)」と言わせています

ごろーちゃん、本当はどう呼ばれていたのかな・・・・と思い、よっしーの書状を見てみると・・・・

?年4月3日 八木藤兵衛宛の書状では「大孫五郎

寛永19年3月20日 儀右衛門宛の書状では「
孫五郎」と書かれてあります

兄弟が面と向かってどう呼んでいたかは、今となっては分かりませんが、公式の場(?)では

「孫五郎」とか「大森の孫五郎」と呼んでいたんだろうなあ・・・・と考えております

オノデラーズの事について調べていくうちに

ごろーちゃんと思われる人物が「
万五郎」と書かれてあるものがある事に気が付きました

『奥羽永慶軍記』の第12巻「小野寺秋田ト合戦ノ事」では

小野寺義道ノ甥大森万五郎ヲ城ノ介実季ノ養子ニソセラレケル

と書かれてあるのが、私にとって「
万五郎」の所見です

これについて細かい事を言えば、この記事の時代背景を考えると

よっしーではなく父の輝道、サネッティではなく北天の斗星で

そしてこの時期に大森にいた五郎は、後の小野寺康道と思われるので

まあ「大森の孫五郎」が正しいんだろうなあ・・・・と軽く思っておりました

ちなみに、この後軍記で活躍するごろーちゃんは、ちゃんと「孫五郎」と表記されております^^;

で、ごろーちゃんの事を調べていくうちに

ごろーちゃんの奥さんと言われている「大森御前」に関する記事を戸沢氏の史料から見つけました

享保末に新庄藩士・田口五左衛門さんが書いた歴史随筆を編集した
『新庄古老覚書』というのがありまして

江戸前期の新庄藩の貴重な資料となっております

それには、新庄へ移封する前にいた角館時代の戸沢氏の事も書かれてありまして

巻之一に引用されている
「古文見聞雑記」(←編者が持っていた書物らしい)に

大森殿(=大森御前)事は、始に平九郎光盛(=戸沢光盛@夜叉九郎の弟、夜叉ジュニの叔父)御縁約有之、光盛卒去の後

小野寺景道
(本当は輝道)の二男大森万五郎(註に「孫五郎なるよし」とは書いてあります)康道への再縁の処・・・・

と書かれてありまして、さらに編者の序文に

新庄楢岡(光珍)氏の家記に、大森御前は光盛死後一旦上方に上り、下国の後、大森万五郎に嫁し、其死後家に復すとある

と書かれてあります

大森御前の実家で、戸沢家の重臣・楢岡氏の家譜をこの目で見ていないので分かりませんが

多分上記のように「
万五郎」と書かれてあるのではないか?と思います

・・・・・ここでも万五郎か

と、正直
「万五郎」という誤記をまた見つけた!って思っていた時!

横手市史資料編補遺2に載ってあった史料を見て衝撃を受けました(゚Д゚)

広島藩主浅野光晟の家老・浅野摂津守高英の家臣で鈴木(鱸)庄右衛門という人物がおりまして

主人の高英(といっても、庄右衛門は藩が高英につけた与力だったようです)が、備後東城に所領を拝領した時

彼も東城へ行く事になった事を、津和野にいたよっしーに伝える書状があります(
寛永18年3月28日付

東城へ移る前の浅野高英の所領は、津和野に近い所にあったらしく、何かの縁でオノデラーズと庄右衛門が交流していたようです

その庄右衛門の書状の猶々書に・・・・

万五郎様へも此段申上度存候

と書いてあるではないですかっ!!Σ(~∀~||;)


庄右衛門の書状は、原文書で残っているらしいので、庄右衛門も「
万五郎」と書いたのであれば

彼の耳には「まごごろう」ではなく「まんごろう」と聞こえていた・・・・って事になろうかと思います

だから、少なくともよっしーはごろーちゃんを呼ぶ時、
他の人が「まんごろう」と聞こえるように呼んでいたんだろうなあ・・・・

どうでもいい事ですが、そう思った次第です

よっしーも呼びにくいから、他の人もきっと「まんごろう」と呼んでいたのかも・・・・

下手をしたら、ごろーちゃん本人ですら「まんごろう」と名乗っていたかもしれません!!


で、事情を知らない庄右衛門は
「あ、弟さんは万五郎さんって言うんだ〜!」と言う事で、万五郎」と書いたんでしょうね・・・・と勝手に思いました

関係ないですが、唯一残ってるごろーちゃんの書状(写しですが)には、
「大森五郎 康道」と署名しています

本人は、大森城主時代、公では「大森五郎」と名乗っていたのは間違いない・・・・と思われます・・・・はい



                 

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