Aブログ記事につけた資料編
注;おおざっぱに描いた地図ですので、ご了承下さい!
一、大島原合戦時の小野寺軍進行地図
自分が納得するために作成した地図でございます!
こう見ると、もがみん側に羽州街道が抑えられていた・・・・と言う事が分かりますし、もがみん側も孤立無援であった事が分かりました!
お陰様で、自分が住んでいる県中央部より、湯沢雄勝の地図に詳しくなりました(爆)
二、東部三城落城関係地図



Snipping Toolの使い方が分かったので、調子に乗って、Googleマップを借用して作ってみました。
こちら稲庭・川連・三梨の雄勝郡東部三城が、最上勢によって攻められた事を示す地図です。
「奥羽永慶軍記」では、文禄年間に起こった出来事として書いておりますが、私は勝手に関ヶ原後の出来事として、オノデラーズシリーズに書きました。
・・・・・・もし、関ヶ原前の出来事だったらすんません(爆)
三、柳田城落城関係地図



こちら、柳田城落城に関する地図です。
というか、ほぼ適当です!
特に、茶色の戦で、オノデラーズともがみんの勢力範囲を分けてみたのですが、それもほぼ「こんな感じかなあ〜?」と私が勝手に引いたものでございますm(_ _)m
ただ、太い茶色の線は、雄物川に沿って引いてみたのですが、雄物川を境に、西馬音内勢&山田勢ともがみん勢がしのぎを削っていたことは間違いないと思います。
四、安東(秋田)実季の仙北進軍等地図(推定)



あまりオノデラーズの中で触れていませんでしたが、サネッティの進軍経路を考えてみました。
最初、淀川で戸沢に進路を妨害された後、一度秋田に戻ってから、赤宇曾(あこうず@岩城亀田松ヶ崎)に向かって南下したのかな?と
適当に進路線を引いてみました。
そうしましたら、ありがたくもこの件にご指摘して下さった方がいらっしゃいまして、上記に訂正致しました。
白の線が以前適当に引いた進路、ピンクが訂正の進路の線です。
戸沢氏が淀川より南に城を築いていたら・・・・という前提で、今のR341に相当する道を通れば、岩城亀田へ直行できます!
↑サネッティの父・北天の斗星(下國愛季)が唐松城を建てていた事を考え、淀川から北の方・・・唐松山は、サネッティの勢力範囲と見なします。
いずれにしても、雪の中の行軍・・・・・サネッティもブツブツ言いながら大森城を目指していたにちがいない・・・と私は思っております^^;;;
五、西馬音内さん達の逃走ルート(推定)



『山内六箇村由来記(抄)』に書かれてある通りに、矢印を付けてみた所・・・上到米から滝沢、そして滝沢から庄内へどのルートを使ったのか
今の時点では分かりませぬ
冬道だったことも考えて、山道は極力避けたかもしれませんし、もしかして極力山道を通っていったかもしれませんし・・・・・
言えるのは、鳥海山のルートだけは通っていなかっただろう!と言う事です@さらさら越えと同じくらい危険です!




      
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